昭和40年08月29日 朝の御理解
昨日一昨日だったでしょうか、久保山先生とお話を、信心話をさして頂いておる時でした。最近中野さんがずっと、こういうおかげを受けていかれておる事を、なんかこう随筆風に書いていかれよりますと。中々良い信心に進んでいかれますなというふうなことでございました。中野さん久保山先生に言われる、まあまあこう言う様な事を話された。ね、「久保山先生、椛目という所は大した所ですな」と言う事です。
「椛目というところは有難いところです」と。「私のような私のような、もう言うならばこの世の廃れ物、もう自分のような言うなら、もうこの世に生きる資格すらないというぐらいに深刻に自分というものを見極めて、親でも兄弟でも、もうほんとにそれは仏様のような、その、まあ、人だと、兄弟でも言うんです。もう勝次って名前を言われますが、「もう、家の勝次ばかりはもう、とっても良いんだ」って言うんですね。
いわゆる、その素面のときだけは素晴らしいと言う。商売も上手だし、ところがその一杯お神酒がこ、入るともう、虎狼も臆せんようなですか、いわゆる、一つの病気なんですね。そのために、立派な酒屋さんの、長男に生まれながら、あちらこちらに職を求めては一、二年位あっちこっち、まあ言わば放浪されましたんですけれども。それでまた帰ってまいりましたら、ああ妹に丁度養子が来てあって、養子がみえて、何日目かという時に帰られたんです。日田に。
まあそれやらこれやら、いろいろ考えられて自分の胸に、帰せよというようなことをまあ考えられてもう、いよいよ自分は信心にでも寄らなければ、神様におすがりしなければ、もうこの世にその立つ世と言うのが無くなった。ところで、あの御兄弟夫婦に伴われてから、椛目で本気で、ひとつ修行さして頂きたいというて見えたのが、そもそもの始まりである。ま、性格的にも非常に良いものを持っておられる。
おとなしい、ほんとにいわゆる、これは家族中の者が言うんですもん。もう中野さんちゃ、こらとってもよかよか人だと。ところがそのよか人だけではいけんのですね。それが、段々信心が分かられ、話を聞かして頂くうちに、段々分かってきてこれは自分も、このようだったら、おかげが頂けれるというこう、明るい見通しがついてきた。まあそのいうような事をひっくるめての事でございましょうね。
椛目という所は素晴らしい所だと。有り難い所だと。私のような世の廃れ物である私がです、ここに、ほんとの、新しい命を頂いたように、新しい生命を頂いたように、生き生きとして、幸せに向かって進んでいけれる希望を与えて頂くというだけでも、有り難い事だと。椛目という所は有り難い所だとこう言うわけですね。そういうような助かりを願って、お互いが助かりを頂く。
その助かりを頂いたらその後、どういう事になっていかなければならんかと。皆さん、例えば、そういう深刻な事からではなかったにしても、様々な難儀な事からまあ、一心におすがりをして、様々な意味合いにおいて助かるおかげを頂いて、その助かりのおかげを頂いただけではいけん。それからが大事。昨日やはり中野さん。「先生最近こういうようなのを書いております。
いっぺんまあ一読して頂いて、訂正して頂くところは、私の考え方が間違っておるところは、また教えて頂きますように」と言うて、まあ、大きな雑記帳にその信心の事を、書いてあるのを持って見えられました。その一番先にですね、こういうような事が書いてあった。ね。誰が見ても、どこででもです、誰が見ても一生懸命と思われるような、信心をさして頂かねばならんという事が分かります。
誰が見てもどこででも、話しとおし信心に、一生懸命なっちゃいなと、思われるくらいの信心を、さして頂きたいと思うと、いう事が書いてある。だからそこには、もうかげ日向があってはならない、しかもいつも、一生懸命であるということなんです。どうでしょうかね。例えば私がああほんとにこの人はもう、朝晩お参りが出来て、もうほんとに私から見て一生懸命。
ところが家族の者が、家のお母さんは、家のお父さんは、もう椛目だけで、一生懸命のことしとるばってん、家ではそげんじゃなかですよと言うて子供達が言うなら、どんこんいかんですよね。家内がそういうのはいかん、主人がそう思うなら駄目ですもん。「家の主人がおかげ頂くはずがなかですが」ち「もう椛目ばっかりいくら参ったっちゃ同じことですが」っち家内が言うぐらいのことでは駄目ですばい。
なるほど、心を神様に打ち向けて、ね、お広前であろうが、家庭であろうが、職場であろうが、ね。神様に心を打ち向けて、おると言う事がです。ほんとに一生懸命で、誰から見られても、見られるような信心が、さして頂きたいと、こういう事が書いてある。三、四日前でしたでしょうか。今、長男が、こちらに帰らせて頂いてから、以来まあ様々な修行をさして頂く。
でそういうふうで、まあ一生懸命に信心に意欲しておる人たちが、今私の長男をまあ先頭に中野さん、秋永さん、それから私共の子供達、光昭やら愛子達も豊美達もそれに一緒に加わって、あのう修行さして頂くんです。もうほんとにあの、なんか知らんけれども、生き生きしたものが、その荒削りながらでもですね。生き生きとして一生懸命神様に打ち向こうておる者が中に一人おりますと、雰囲気が変わってしまうですね。
確かに椛目の周囲の雰囲気が変わってしまったです。ね。ほんとに有り難い事だと私は思います。まあ大体昼頃お参りされて、なんかまあどっちかちいうなら、あんまり熱意が無いといやあ、熱意が無い方達が、まあ遠方からの方達もありますけれども、方達が多いんですけど、あの御祈念の修行、奉仕をやっておりますが、あの御祈念中に参って来た人達なんかはもう必ず、もう必ずおかげ頂いて帰りますもんね。
そこでその、大祓い五巻ですかね、もう一生懸命でここで皆が、その奏上さしてもらう。丁度、一時間掛かります。もう一生懸命なんですね。もう、それこそこのお広前が割れるような、表を通っている人たちは立ち止まって見るくらいに、一生懸命にお祓いをここで、それが十人が二十人なって、ずうっとお参りの方達も一緒に致しますから、もうほんとにお広前は割れるようにあります。
そういう御祈念を私共の妹も一緒に、丁度休みの日でしたから一緒に頂いておったんです。ところが御心眼に妹が頂いております事が、とにかくその若い人達が一生懸命になってあの御祈念しておる姿に、打たれた、感じてたんですね。その事をお礼申し上げさして頂きよりましたら、妹が心眼に頂いております事が、「山下勇吉」と頂いておる。私共の知り合いに山下勇吉ってなんて人は信者におりませんし、妹も知らないらしいんですけど、字に頂くのは、山下勇吉と頂いた。
とここで、お届けに参りましたから、あぁその事を神様にお伺いさして頂きましたら、山と言うのは修行の事、下、山下と言うことは下と。言うならば、今若い人達が一生懸命、それこそもう一生懸命もう、で御祈念さして頂いておるという、そういう修行なんだと。ね。そういう修行は、まあ修行の中では下の部だと言う事。修行の中では、下の部だというわけです。私、有り難いと思う事はですね、その一時間の間に参って来る人達は皆、おかげを頂くひとばかりなのです。
もうとにかく表に入った時には、もう朗々たる割れるような声で、大祓いをあげておるのを聞いただけで、身が縮むような思いがしましたと。そしてその姿を見まして、いよいよ感激致しましたという、人たちがいるんですけれども、その、後先が参って来る人があるですね。「今から御祈念が始まるから、あんた達ちょっと頂いていきなさらんか」と言いたいぐらいに、ちょうど帰る人たちがある。
かというと、終わって座る時にぞろぞろっと参って来るがある。ははぁこの人たちは、この御祈念の会には入れんのだなぁと私は思うのです。いや入れんのじゃない、ひょっとすると、金光様の信心を低級視するような向きの人達だと私は思うたんです。ね。金光様のご信心はそういうような、信心はないというように、その間違える人たちが、ようなタイプの人が多いのですね。本当に神乍らな事だと思うのですけれどもです。
成程神様からご覧になっても、やはり修行の部では、下の部だと言う事。それこそもう大祓いを、もうけれども、私共はもうああいう勢いで上げたら、私共はもうついちゃいけませんです。もう三巻がようやく、もう五巻は付き合いません。私も此処からもう一生懸命、その合い間合い間に、その気合を入れてやるんですね。けれども後ろに付いて行かれんです。あの勢いには。ね。
もう若い時じゃなからなければ、出来ることちゃないと私は思います。ね。それが、そういうまあ、汗水を流しての修行がです。神様の目からではない、金光教的にいうならばです。いわゆる、修行の部では下の部だと、そういうような修行が、例えば、一生続けられるなんて、実に、だから可笑しいですね。これは、四国あたりから参っておる方達が、御本部なんかに参っておりますと、もう本当にですね、とてもお広前に、以前はお広前で大祓いを奏上しておりましたけれどもね。
今は、あれは禁止されております。他の人の御祈念の邪魔になるからと言うので。だから奥城なんかで、いわば一生懸命もう兎に角、膝頭が割れるじゃろうと思う位に、こうこうこうドスドスやってから、もう体を左右にこうこう揺さぶって、その御祈念をしておられる方があります。もう一生懸命ですから、もう自分は有り難い中に、もう没入しておられるわけなんですから、いわばそれを脇から見せてもらうとです。
私共でももう本当に、まちっとどうかした御祈念の仕様はなかろうかと。本当に危ないものだと、本当にある意味合いでは、やっぱり軽蔑しておりましたですね。いわゆる神様の目からご覧になっても、修行の部では下の部であり、ただ勇吉である。勇ましい事思ってよしとするだけなのである。勇ましい吉と書いてある。勇吉勇ましい元気な心で神様に打ち向かう、稽古をしておるということが素晴らしいんだという事。
一生懸命になっておりますからね、もうそれこそ、血の出るような、その大祓いをあげておりますから、一生懸命ですから、やっぱ神様も一生懸命に打ち向こうて下さる、証拠には、皆がね、もうその、おえつが出て来るんです。泣き出してくるです。御祈念しながら。だから、その後のそう快さというのは、格別だと私は思うんです。思うた私も、そういう体験はございます。
けれどもその、修行の方では一番下の部だと言う事は、一番つまらんと言う意味じゃないと言う事です。一番下、一番底から行かなければいけないと言うことなんです。皆さんどうでしょう。大祓いを今度、そこから、それこそ大きな血の出る様に大きな声でお上げに成ったことがあるでしょうか?ね。それこそ、ね、冬なら汗が出るように、ね。夏なら汗が流れてです。もう上着がベトベトにそれこそ水もかから、脱いだらすぐ、水をかかってから、気が絵致します。
ぐらいに汗ぶるぶるになって、滝のような汗を流して、いわば信心奉修を致しております。ね。それはいけないというのではない。それはもういわばそこから段々、おかげを頂いてこなければならん。いわば行儀正しゅうそれこそ有り難い有り難い御祈念が、または大祓いが、天津祝詞が奏上出来れるというような風に、段々なっていかなければならんのだけれどもです。そういう修行もまた、させて頂かなければならない。
いうならば、中野さんのですね、もう自分は世の中の廃れ物だという自覚なのですよ。ね、そこに助かりを頂く、その助かりが頂けたらです、その神様の教えを自分の身に頂かせてもろうて、その、教えを行じることが、また、只今申しますようなです、修行に取り組ませていただくと言う事がです。誰が見てもどこででも、誰が見ても一生懸命だと思われるような修行になり、または、それが一生懸命の教えに取り組む行にならなければいけないと言う事です。
教えを頂かせてもろうて、それは中途半端から入ってきておりましても、教えを頂けば頂くほど、障子一重がままならぬ定めであると言う事も、成程、自分が無力であるという事も、いや、自分のような汚いものがあろうかというような事は、教えの鏡の前に立ってくれば分かっていくのである。いわゆる、中野さんだけではない、自分こそ世の中のご厄介者であろう、神様のご厄介者であろうと。
昨日、一昨日、山口の先生が、永田先生がお見えてから、話なんです。もう本当に、もう満州、満州に布教しておられましたですね、満州時代から何十年にもなりますが、私共夫婦ぐらい本当に神様に対して相すまん私共はないと言う事が、椛目にお参りするようになって分かりましたと。まあ、わずかばかりの信者がです、そのいつも場合でもです。その、満州時代、山口に引き揚げてからでもです。
食べる事だけには事欠かない所のおかげを頂いておるけれども、それ以上のごひれいが頂けないという事は、ただ私共永田一家の為に、神様がです。ね、信者をただ、付けておって下さるだけだと。いわば、永田一家が食べていく事の為に、何人かの信者が付けられておるのだというような事が分かってきたらです。もう最近相すまんという想いで、一杯でございますとこう言われる。
私共一家ぐらいにです。ね、神様のご厄介者はあるまいという自覚が出来て来たと言う事なんです。ね。そういう風にです。私共くらい私一家くらい、神様のご厄介物はあるまいというような自覚からです。私はいわば「山下」であって、修行の部では下の部と頂かずに、一番どん底から、私は立ち上がって行く信心が尊いと思うですね。でなかったら、中野さんが、今その覚悟しておられるようなです。
成程、誰が見ても一生懸命だろうと思われるような、信心をしておられます。黙って黙々として、しておられます。最近なんかはもう本当に、こうして、御神前に様々に奉仕させて頂くのに、こういう、洋服ではなんか勿体ない。本当に許されるならば、紋付袴でも着けてから、おかげを頂きたいといったような意欲が生まれてきておる。先日から親方、姉さん達夫婦が参ってまいりましたから。
そのことを申しましたらもう本当に、その香月さんが打ち込んでくれるなら、それは私共が、おかげを頂きたいといってから、今その御本部にそれを注文するようになっております。本当にですとてもほんに、開襟シャツでどん御祈念な出来んて。御神前の奉仕は出来んて。お掃除一つさせて頂くでもやはり、袴ぐらい着けておかなければ、御神前には入られんという位なものがです、段々出来ておると言う事が尊いです。ね。
まだここに見えられてどの位になるでしょうか。中野さん二ヶ月いわば六十日あまりの間にです。もう信心何でも同じ事ですがね、進行する専念すると言う事は素晴らしい事だと思うですね。そのことに専念するという事そのかわりに食べる事も考えんでよいと。家庭の事も考えんでもよいと。家内子供があるわけでもなし。世の中の一切を断ち切ってしまってから、いわば信心に打ち込むと言う事は、有り難い事だと思うね。
そういうような、信心修行から生まれてくるものは、只今申しますような、もう本当に、この神様ばかりはシラ真剣、陰も日向もない、ただ、一生懸命ならなければ相すまんというような信心が、段々分かって来る。ね。自分自身を本当に分からせて頂くと同時にです、いわば、先ほども一番どん底からのいわば下の部からの修行なの。いうなら此の方の信心は、家業の行だと。
表行より心行せよと仰るから、表行なんかどうでも良いと言うのではない。もう真剣に家で働いておることが、そのまま修行である。間違いなくそうなのだけれども、果たして、それが本当に、神様が喜んで頂くような修行になっておるだろうかと。ね。家庭の行をいよいよ行たらしめるために、ね、いよいよ、心行が、いわば、勧めて頂く事の為に、私は人の真似が出来んくらいな表行もさせてもらい。
いうならばちったあの人は、ぼうけておるとじゃなかろうかと言うくらいな、一生懸命な信心がですね、今あの秋永先生の長男の徹さんななんか、もう大祓いを覚えんならんもんですから、毎日駐車場のあそこの所塀に腰掛けてから、炎天を選んでから一生懸命にそれこそこれから私発声法を稽古しよる。もう腹の同道から歌を稽古するときのように、もうどん底からの声を出さなきゃいけんと私が言うもんですから。
もう、ジゴ声を張り出してから、もう道を通るものが、もうそれこそ、気違いじゃなかろうかと思うくらいです。もう一生懸命しかも大祓いの本ば、こう持ってからやっております。ね。そういうような形の上におきましてもです、そう言う所から段々おかげを頂いて参ります。昨日も熊本から参ってまいりました、方が非常にこの頃おかげを頂きましてから、神様から色々お知らせを頂く。
特に御霊様関係が非常に強い。もう御霊様を人間をこんな風にして拝む。はあ、家の娘かと思うておったら、それは、いうならば幽霊だったと。と言うくらいに肉眼で拝むようなです、風に霊徳が段々激しくなっていきよる。もうそれでもう実に有り難いのですけれども、私が言うのです。私にも過去において、そういう時代があったのだけれども、それが段々向上していかなければいけない。
それが誰が見ても合点がいくような、いわばお道の信心はどこまでも。話を聞いて助かる道なのだから段々話も出来、また話を聞かせて頂いてから助かる。同じその助かっていない御霊様でもです。私が朝晩ご理解をさせて頂きよるが、家の関係の御霊様は全部この私の御理解を聞いておってござるのです。そのことを私は御祈念の時必ず、只今から御理解を頂きますから、お参りをさせて頂いておるのだけではない、御霊様方、全部御理解を聞いてくださっておる。
だから御霊様も次々と心を開いていかれる。悟っていかれるそれで、段々力ある御霊様に進んでいかれるわけなんです。それはみなさんと同じことなんです。とういようなところまで、信心が同じ霊徳でも、進んでいかなければならないとこう、申しておりますように。始めはやっぱりそうなんです。ね。だからそれを低級視する事も出来ないし、笑う事も出来ないです。そこを通っておるということは実に有り難い。
けれども往々にしてです、そこから脱却しきらない、上りきらない。者を見切りきらない人達だって一生、御霊様拝んで終わってしまう人達もやっぱあります。一生例えばそれが、その教会の一つのアイデアになってです、もうてんで、こうこうやってから、御祈念するとが、良かつのごとしてその初代の時も、二代にも三代にも、それが残っていきよると、言ったような教会もあります。ね。
ですから私は、そこんところを段々向上していかなければいかんけれども、ただ、上品にばっかりなってです。その、下のところが段々信心修行も出来ずしておいて、上に出も、上がることは出来ないと私は思う。ね。だからチャンスを得たならば、本気で一つ私はいろんな意味合いに置いての修行もさせてもらい。夕べの御理解にです。例えば小包を高芝さんなら高芝さん宛てに送ります。間違いなく届く。
ところが「私はあんたに小包送ったが着いたじゃろか、いや着いておりませんよ」と、調べて見た所が宛名のいわば荷札が切れておったと言った様な事はなかろうかと言う事。確かにこの喜びを持ってすれば神様は聞き届けて下さったと、思うておるのだもん。小包は神様に送ったようなものだもん。ところが、おかげが帰って来ないとするならばですたい。お礼の手紙もなにも来ないならばですたい。
荷札が途中で切れてからどっか、空を舞いよるとですばい。それがどういうようにして、そういう事になるかと言うとですたい。ね、自分の都合の良い事だけは有り難い。都合の悪い事はありがたくないどころか、不平不足をいいよるのだから、それが私は、あやふやになってしまいよるこっちゃなかろうかとこう思うです。とにかく私共が、此処に本当のことが分かると言う事は、ね。
降ろうが、照ろうが、一切が神様のご都合でありお恵みであるということなんだ。ね。だから、自分の都合のよか時にお湿りがあったことだけは有り難い、そして、お日照りの時は有難くないといっったようなことではならん。お日照りもまた、神様のお恵みだと言う事を分からにゃあいかん。そこに、有り勝たいが連綿として続いていくわけなんだ。その有り難いというのがです、もう間違いなしに、神様に通う。
しかも神様からまた、返信がくるという、おかげが、帰って来るというような、おかげになって来る訳なのです。これが本当のおかげなのです。此処を一つ皆さんが例えば、その、色んな意味合いに置いての、助かりを受けられて、受けられただけではいけん。その受けられたら、本当の信心にです。中野さんの、それではありませんけれども、ね、誰が見ても一生懸命と。
例えば今ここで、若い人達が御祈念の奉修をやっておるあの姿を見て、もう本当に、あれが一生懸命だろうとこう思う。だから一生懸命でないものまでそれに合流したら、一生懸命こう、思わざるをえないようなです。誰が見ても一生懸命といったようなものが、心行または表行または、お広前または家庭、もう表もなからなければ陰もないというようなものがです。一生懸命の信心修行が成されていかなければならん。
そこから私は成程、降ってもおかげだな、照ってもおかげだなと言う事が、体験させて頂ける事が出来る。ですから、人が難儀を感じて悔やんでおる時でも、有り難いのになあと思う事が出来る。または、お礼を申し上げねば成らんことになるということが分かる。自分自身の事の上のことにおいでも、だから、お礼だけしかないと言う事になる。だから確実に神様にいわばその、通う事が出来るようになってくるおかげになってくるのではないかと私は思うのですね。
どうぞ一つもうどん底からの信心が大事だとやっぱいろはのいの字から、信心をさせて頂かねばいけません。もう十年椛目でおかげを受けよるばってん、まあだ大祓いば完全に覚えておらんという人が沢山あるんですよ。まあだ心から一生懸命で、それこそ自分の事のごたる勢いで、神様には大祓いを置かんでお供えしたという事のないと言う人もある。それでどうしておかげが受けられんじゃろうかというのは、ちょっとおかしいですね。 おかげを頂かねばいけません。